アニメ『パリピ孔明』の三国志ネタなどの元ネタを解説していきます。
目次
1話
泣いて馬謖を斬る
意味は以下のような感じです。
規律を保つため、個人的な思い入れは捨てて、違反者をきちんと処罰することのたとえ。
「泣いて馬謖を斬る」は故事成語になります。
故事成語とは「昔の出来事や古い書物に登場する話をもとにしてできた言葉」です。
故事が「昔の出来事」を意味します。
したがって、由来となったエピソードが存在します。
「泣いて馬謖を斬る」の由来
馬謖(ばしょく)とは孔明が可愛がっていた、孔明の腹心の部下でした。
孔明は街亭(がいてい)の戦いの要所の守りの指揮をこの馬謖に任せることに決めました。
この際、要所の守りにつかせる候補として、経験豊富な武将である魏延(ぎえん)や呉懿(ごい)が挙がっていましたが、孔明は周囲の反対を押しきって馬謖をこの要所の守りにつかせました。
この時なぜ、反対を押しきってまで馬謖を要所の守りにつかせたのかについてはいろいろな説がありますが、一つ紹介すると、
先程あげた魏延(ぎえん)と孔明は今回の戦いの基本戦略の面で対立していました。
そのため孔明は要所の守りを魏延につかせることをためらいました。
一方、もう一人の候補である呉懿(ごい)ですが、もし彼を選んだ場合、魏延より呉懿の方が優れていると判断したと思われる可能性があります。
魏延はプライドが高く、ともすれば孔明は恨まれてしまう可能性がありました。
こういった人事上の複雑な事情があり、結果として丸くおさまり、孔明の作戦の理解者でもある馬謖を選んだというものです。
こうして要所の守りを任されることになった馬謖ですが、孔明の命令に従わず、勝手な判断で指揮を取り、ボロ負けしてしまいます。
そして、責任を問われます。
この時、孔明はいくら愛弟子とはいえ、ひいきする訳にもいかず、軍の規律を守るため涙を流しながら処刑したというのが由来です。
三顧の礼
三顧の礼は、「目上の人が、人に仕事をお願いするとき何回も訪問するなどして礼儀をつくして頼むこと」という意味があります。
こちらも故事成語なので、由来となったエピソードがあります。
「三顧の礼」の由来
劉備(りゅうび)が孔明に、「私の軍師になってはくれぬか」と頼むにあたって三度も訪問した。という故事が由来です。
なぜ三度もたずねたのかというと、1度目と2度目は孔明が留守で会えなかったからです。
ここで重要なのは、
劉備という人物は皇帝の血筋をひくもので、とても高貴な身の上です。
そんな身分の高い人物が、当時、田舎の一庶民にすぎなかった孔明のもとをわざわざ自ら何度も訪ねていったという部分です。
普通ならわざわざ出向くのではなく、使いを出して孔明を呼びつけてもおかしくはありません。
これに孔明は感激し、劉備に仕える決心をしたと言われています。
2話
石兵八陣
石兵八陣は、夷陵(いりょう)の戦いで、孔明が使用した罠です。
正式な歴史書である『三国志』をもとに作られた中国の小説『三国志演義』に登場する架空の陣であるとされています。
ひとたび足を踏み入れれば、出ることは困難を極め、やがて死にいたるという恐るべきものです。
ちなみに夷陵(いりょう)の戦いは、劉備(りゅうび)が自ら指揮を取った戦いですが、相手方の陸遜(りくそん)の策によって大敗してしまいます。
陸遜は劉備の首を取るために追撃しますが、途中で、この孔明の仕掛けた石兵八陣によって追撃を諦めるしかなくなります。
そのおかげで劉備はなんとか助かることができました。
『三国志』の名場面の一つです。
3話
無中生有
無中生有(むちゅうしょうゆう)とは「無中に有(ゆう)を生ず」、すなわち「無いものをあるように見せかけ相手を油断させ、その隙突く」といった意味があります。
「無から有を生み出す」とも言い換えられます。
中国の兵法書である『兵法三十六計』の一節です。
パリピ孔明のアニメでは、機材トラブルを偽装して相手を油断させ、タイミングを見計らって一気に仕掛けるといった使い方がされていました。
本来は無いはず「機材トラブル」をあるように見せかけ相手の油断を誘ったわけです。
4話
水魚の交わり
水魚の交わりとは「非常に仲の良い関係であること」を意味します。
魚にとって水が絶対必要なように、お互い欠かすことができないほど親密な関係を表しています。
「水魚の交わり」の由来
劉備(りゅうび)は先ほど書いた「三顧の礼」のエピソードを経て、孔明を自分の補佐官に迎えることになるわけですが、それから劉備と孔明は毎日のように今後について語り合っていました。
しかし、そんな二人の関係を面白く思わないのが、昔から劉備に仕えていた部下達です。
とうとう我慢の限界。直接、劉備に訴えに出ます。
この時、部下達に向かって劉備は「水がなければ、魚は死んでしまうように、孔明がいなければ私も死んでしまうのだ」と言って説得したと言われています。
ここまで言われては、部下達もしぶしぶ納得するしかなかったのでした。
6話
能(よ)く敵人をして自ら至らしむるは、これを利すればなり
意味は「相手に利益になると思わせれば、敵であっても上手くおびき寄せることができる」。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」で有名な『孫氏』(通称:孫氏の兵法)に登場する一節です。
ちなみに三国志に登場する英雄の一人である、曹操(そうそう)が、この『孫氏』を再編纂したことで知られています。
そもそも、この『孫氏』という書物が成立したのが紀元前500年頃、すなわち今から約2500年ほど前であるとされています。
そのため、曹操の時代(約200年頃)には、『孫氏』が出来てから、すでに700年ほど経過しています。
その間、この『孫氏』に関して色々な解説書が出ていました。
それを整理し、わかりやすくまとめたのが曹操であるというわけです。
したがって、現代の私たちに馴染みのある「孫氏の兵法」とは、この時、曹操によって編纂されたものになります。
7話
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや)
「とるにたらない小物には偉大な人物の考えは理解できないものだ」という意味があります。
「燕雀(えんじゃく)」はスズメなどの小さな鳥を意味します。
「鴻鵠(こうこく)」にはハクチョウなどの大きな鳥の意味があります。「鴻鵠」は転じて、「偉大な人物(大物)」を意味します。
横山光輝『三国志』(通称:横山三国志)では、赤壁の戦いの戦い前の大舌戦、つまり降伏派vs交戦派の論戦の時に、孔明が次のセリフを言っています。
孔明「万里を駆ける大鵬(たいほう)の気持ちは小鳥にはわかりますまい」
大鵬とは「大きな鳥」という意味です。
大鳥の気持ちは小鳥には理解できないと言っているので、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と意味は同じです。
10話
「合肥を張遼が守っているくらいにはな」の意味
このセリフが登場するのは以下のシーンです。
孔明「オーナー ご安心を 本日2人は不在ですが私が100人分の働きをお見せしましょう」
オーナー「なるほどぉ そりゃ心強いなぁ
合肥を張遼が守っているくらいにはな」孔明・オーナー「ムフフ ふふふふふ」
引用:アニメ『パリピ孔明』第10話 6:00〜
この「合肥を張遼が守る」の意味について解説していきます。
まず「合肥(がっぴ)」とは、将軍の張遼(ちょうりょう)が、曹操(そうそう)から守備を任された場所の地名です。
そこへ、孫権(そんけん)率いる10万の軍勢が攻めてました。
これに対し、張遼側の軍は7000人しかいませんでした。
張遼はこの中から、800人の精鋭部隊を率いて孫権を迎え撃ちました。
孫権10万vs張遼800人
その差は、ざっと計算して100倍以上。こんなの無謀すぎる…。
結果はどうなったのかというと、
張遼率いる800人は、孫権軍10万に対し壊滅的な打撃を与え、孫権側は大混乱に。
そして、孫権は一時撤退を余儀なくされてしまいます。
張遼恐るべし…!
これで、オーナーの言ったセリフ
「なるほどぉ そりゃ心強いなぁ
合肥を張遼が守っているくらいにはな」
の意味がよくわかります。
士、三日会わざれば刮目して見よ
「士たるもの別れて三日もすれば成長しているものであるから、刮目(かつもく)して見るべし」という意味があります。
「刮目」には、「目をこすってよく見る」という意味があることから、
「刮目して見よ」というのは、「三日前とはまた違った新たな目で見よ」ということです。
まとめると、
「士、三日会わざれば刮目して見よ」の意味は、
「士たるもの別れて三日もすれば成長しているものであるから、三日前とはまた違った新たな目で見なければならない」となります。
「士、三日会わざれば刮目して見よ」の由来
その昔、今から約1800年ほど前の中国に、呂蒙(りょもう)という将軍がいました。
呂蒙は、呉という国の孫権に仕えていました。
呂蒙は、もともと貧しい家の出身で、戦で手柄を立てて出世した将軍でした。
そのため、戦は強くとも教養がなかったため、いつも周りからそのことをからかわれていました。
そんな呂蒙を見かねた、孫権は呂蒙に教養を身につけることを進めます。
はじめのうちは渋っていた呂蒙ですが、しだいに勉学に本腰を入れ始め、メキメキと教養を身につけていきます。
そんな呂蒙の評判を聞きつけた、知識人で軍略家でもあった魯粛(ろしゅく)が呂蒙のもとへ訪れます。
この魯粛も、いぜん呂蒙が教養がないことをからかっていた一人でした。
魯粛は呂蒙の成長ぶりに、
「昔とはまるで別人のようではないか!」
と驚きます。
これに対し、呂蒙はこう答えます。
「士、三日会わざれば刮目して見よ」と。
12話
草船借箭の計(そうせんしゃくせんのけい)
第12話の中でオーナーが言っていた草船借箭の計ですが、
赤壁の戦いで孔明が3日で10万本の矢を用意した策のことを指します。
赤壁の戦いは、孔明の属する蜀と呉の連合軍7万が、曹操軍80万と戦った戦いです。
孔明の属する蜀と呉は同盟しているのですが、呉の軍師である周瑜(しゅうゆ)は孔明を恐れており、孔明を消そうをたくらみます。
そして孔明にたいして以下のような無理難題をふっかけます。
周瑜「10日で10万本の矢を用意せよ。用意できなければ、軍法にてらして貴様の首をはねる」
孔明「3日で用意して見せましょう」
そして、孔明は草船借箭の計を使って見事に10万本の矢を用意してみせます。
孔明の天才っぷりがよくわかるエピソードです。