縄文時代って、どうもつまらない

というか、興味を持てないイメージがあった。

というのも、その理由の一つに、著名な歴史上の人物がひとりも出てこないというのがある。

歴史に詳しくなくても織田信長くらいは聞いたことがあるという人もいるように、日本史や世界史などの「歴史」といえば、言いかえると「人物の歴史」みたいなイメージがある。

その、いわば「歴史上の偉人」が縄文時代あたりだとまだ出てこない。

織田信長とか徳川家康みたいな特定の人物が出てこないのは、縄文時代あたりだと、まだ文字による記録が残っていなくて、発掘された遺跡だとかそういう考古学的な知見に頼るしかないというのがあるんだろうけれど。 

まあ、とにかくそういう特徴があるから、人よっては興味を持ちづらい時代ではあると思う。

筆者もその一人だ。

そんな、歴史上の人物がひとりも出てこなくて興味を持ちづらい時代であっても、見方を変えると結構興味深いなと思えるという体験をした。

最近ハマっている「くらしとくらふと〜歴史編〜」というpodcastの第2回を聞いたことがきっかけなのだけど。

この「くらしとくらふと〜歴史編〜」というpodcastの第1回の感想については、以下の記事で書いた。

今回も、そんな感じでこのpodcastを聞いた感想を交えつつ、あれこれ考えたことを書いていきたい。

縄文時代は現代社会との比較で見ると興味深い

先ほど、縄文時代は織田信長みたいな歴史上の有名人が出てこないので興味を持ちにくくてつまらないと書いた。

だけど、そんな一見あまり魅力を感じにくそうな縄文時代ではあるけれど、現代社会との比較で見ると結構興味深いなと思った。

例えば、縄文時代には「身分差や貧富の差がなかった」と言われている。

現代の日本では、身分差について意識することはほとんどないけれど、その一方で「貧富の差」の方はよく問題になっていて目にすることが多いように思う。

貧富の差に関する話題の中で、よく目にする言葉に、「格差社会」という言葉がある。

意味はコトバンクで引いてみるとと以下のように書かれている。

所得などの格差が個人の努力では埋めがたいほど大きい社会

引用:格差社会(カクサシャカイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

要は、実家が裕福な家庭で育った子供は将来所得の高い仕事に就いて裕福になり、一方、あまり裕福ではない家庭で育った子供は同じように将来あまり裕福にならないということがあって、

こういった経済的な格差などが個人の努力では埋めがたいほどに広がっている。
それによって、ある種の階層の固定化が進み、社会の人々の分断が進んでいるみたいな話だ。

なんだか気が重たくなってしまう話ではあるけれど、とはいえ深刻な問題で、日々、その解消が叫ばれている。

こういった「格差」について考える時に、「縄文時代に貧富の差がなかった」という話はヒントにつながると思った。

なぜ縄文時代には「貧富の差」がなくて、現代には貧富の差があるのか?ということを明らかにしたり、考えるたりすることは、

そもそも「貧富の差」ってどうやって生まれたのか。とか、あるいは生まれるのか。みたいな根源的な問いにもつながってくる。

現代を生きる僕たちは、「貧富の差」があるということを当たり前のものとして受け入れて何気なく生きている。

だけど、縄文時代みたいに、その「貧富の差」があるということが「当たり前じゃなかった時代」もあるということを知ることで、現代社会の抱えている問題や「歪み」みたいなものを浮き彫りすることができると思った。

なんだか重たい話になってしまったけれど、縄文時代のような現代と比べるとシンプルな構造の社会を学ぶことは、複雑化した現代社会を考える上でのヒントにつながると思う。

創作の役に立つ

これはべつに縄文時代に限らないけれど、日本史や世界史を学ぶメリットの一つに、社会ってどうやってできているのか。とか、どうやってできたのか。といった「社会の成り立ち」を知ることができるというのがある。

この「社会の成り立ち」を知ることは、小説を書くなどの創作をする上で、とても役に立つ。

例えば、縄文時代から人々は、ずっと同じ場所に暮らすという「定住生活」を営むようになる。

当然、食べ物が豊富に取れる場所に定住するわけだけど、だんだんと人口が増えるに従って、食べ物が足りなくなってくるということが起こる。

そうなると、他の集落へ食べ物を奪いに行くという流れが起きて、集落同士の争いが始まるみたいな話があったり、

他には縄文時代の人々の信仰についての話もある。

例えば、縄文時代の人々が持っていたとされる信仰の一つに、「土偶」という人形がある。

この土偶は、「壊された状態」で発掘されることが多いことから、人々が土偶をわざと傷つけることで、病気や災害を土偶に転嫁しようとしたのではないかと言われている。

以上見てきたように、共同体同士の争いだったり、信仰が社会に対して果たしている役割などを歴史を通して知ることができる。

こういったことは、創作をする時に物語の世界観や設定を考える上でとても役に立つし、なんだか創作意欲も湧いてくるなと思った。

「国家」と「国家の外側の人々」は同時に存在していた

「くらしとくらふと〜歴史編〜」の第2回を聞いていて興味深いなと思った話のなかに、

「国家」と「反国家」は並立して歴史に存在していた。というのがある。

「国家」と「反国家」とは一体何なのか。それはこのように説明がなされていた。

縄文時代の人々は定住生活を営んでいたとはいっても、その集落の規模はせいぜい一集落あたり4〜6軒程度だったといわれている。

それに加えて、先ほど触れた「縄文時代には身分差や貧富の差がなかった」といわれていることからも分かるように、

後の時代に出てくるような、「強力な指導者」というのはまだ出現していなかったと言われている。

要するに、縄文時代の時点ではまだ現代でいう「国」のような、いわゆる「国家」という形体は存在しなかったということになる。

今、「国家」という言葉が出てきた。いきなり「国家」といわれても、どうもイメージしにくいと思うので、先に進む前に、この言葉の意味をもう少しはっきりさせておく。

例えば、現代の日本だと、国会や内閣を中心として国の政治の決定が行われている。昔のヨーロッパだと、王様が中心となって国の政治的なことを決めていた。このように、王様や政府などの、大きな権力を中心とした共同体の中に人々が暮らしているというような形態のことを「国家」と呼ぶ、というイメージを持っておけばok。

話を元に戻そう。縄文時代には、まだ「国家」は存在しなかったという話だった。

一方、そのあとの弥生時代になってくると、強力な指導者が出現する。そして、各地で争いが起きて集落同士の統合が進み、だんだんと「現代国家の原型」のようなものが出来てくる。

このように縄文時代、弥生時代という風な順番で歴史を学んでいくと、「国家なき時代」からだんだんとグラデーションの様に、「国家のある時代」へと置き換わっていったと見られがちだ。

要するに、縄文時代には縄文土器を作ったり、狩猟採集生活をしたりしていた人達が、弥生時代になっていきなり稲作を始めたかのように見える。

だけど、実はその認識は正しくないらしいのだ。

弥生時代であっても、まだ縄文時代的な生活をしていた人々はいたはずで、
日本史では、それを弥生時代のあくまで「弥生的な生活をしている人々」にスポットを当てて記述しているから、そのように見える。という話があって、とても興味深いと思った。

さらにこんな話もしていた。

縄文時代のような「国家なき生活をしている人々」のことを「反国家」とするならば、
弥生時代は「現代国家の原型」ができた時代だ。

縄文時代のような反国家的なコミュニティの具体例としては、漫画『キングダム』の舞台となっている秦(しん)の時代に存在した遊牧民族「匈奴(きょうど)」の存在がある。

古代中国の秦では、始皇帝を中心とした政治が行われていた。
いわゆる、わかりやすくいうと国のトップに王様がいて、国をまとめるといった体制のことだ。

匈奴(きょうど)というのは、この秦と同時代に存在した遊牧民族のことで、秦のような皇帝を中心とした国家とはまた異なる、独自の「遊牧国家」を形成していた。

地理的にみても、匈奴の人たちは、秦の領土の「外側」に住んでいた。

日本史や世界史の教科書などでは、基本的に「国家」を中心として記述がされるため、その「国家の外側」にある遊牧民族などの歴史にはあまりスポットがあたることは少ない。

だけど実は、その「国家の外側」にも長い長い歴史があって、そこには人類のもう一つの世界がある。

みたいな話もしていて、すごいロマンを感じた。

自分たちが教科書で学んでいる歴史は「国家」を中心としては記述されたものなので目が行きにくいけれど、実はその「国家の外側」にも広大な自分たちの知らない歴史が存在すると考えると、すごいなワクワクしてくるなと思った。

こういった匈奴のような「国家的な社会の外側」にあった文明については、ちょっと調べたところ林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』という本が割と一般向けに書かれていて面白そうだったので読んでみたいと思った。

おわりに

podcast「くらしとくらふと〜歴史編〜」は第1回に引き続き、今回も色々と考えさせられる内容で、実りのある放送だった。

話は少し変わるけど、考えさせられるコンテンツって良いなと思う。

小説でも漫画でも時々、たんに面白いだけではなく、考えさせられる作品に出会うことがあるけど、

そういう考えさせられるコンテンツに出会うことで、普段はあまり、あれこれ考えないような人でも、それによって考えるきっかけが出来て、ちょっとだけ考えてみる、みたいなことがあると思う。

こういった考える「きっかけ」が出来るという意味で、たんに面白いだけではなく何かを「考えさせられる」コンテンツって筆者は結構好きだ。

哲学者の東浩紀さんがこんなことを言っていた。

「新しいことを伝えるっていうのは、伝えるんじゃなくて考えさせるっていうことをしないと、新しいことは伝わらない」

引用:「5行以上の文章」が読めない日本人?インターネット時代の言論【東浩紀×堀江貴文】 - YouTube

人に何かを伝えるには、「考えさせるプロセス」が必要といった意味だ。

「考えさせられるコンテンツ」というのは、人に何かを伝えるという意味においても優れてるのだと思う。

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