夫婦ってのはね、2人の間に強い「幻想(ファンタジー)」がなきゃ成立しないもんなんです。

引用:乃木坂太郎『夏目アラタの結婚』(小学館)

死刑囚アイテムコレクターの藤田さんのセリフなのだけど、もう少し詳しく書くと、

藤田さんは、ある時、妻に浮気をされてしまい離婚にいたったという経験を持っている。

そんな藤田さんが、離婚のきっかけとなった、そもそもの出来事を語ったシーンで登場するセリフだ。

このセリフの意味をもう少し詳しく書くと、
藤田さんはまだ結婚していた当時、ずっとこう思っていたそうだ。

妻は夫婦で一緒に並んで寝るのが好きだ、と。

ところが、
それがある時、妻から「真っ暗な部屋で一人で寝たい。…ずっとそうしたかった」と言われたという。
つまり、藤田さんの妻は、本当は夫婦で一緒に並んで寝るのが好きではなかったようだ。

こうして書くと、
一見なんてことのない出来事のように思われるかもしれない。だけど、それは藤田さんにとって、とても重要な出来事だった。藤田さんは、その言葉に深く傷ついて、
それから少しずつ、妻との心も離れていったそうだ。
そして、最終的に妻の浮気が発覚し、離婚にいたったというわけだ。

藤田さんは、当時を振り返ってこう語っている。

なんてことないテレビに照らされた2人の寝室が…
私の大事な「幻想」だったんだ…って。

引用:乃木坂太郎『夏目アラタの結婚』(小学館)

この藤田さんの気持ちは痛いほどよく分かると思った。いや、できれば分かってしまいたくなかった。

私もこの藤田さんと同じような経験をしたことがあるからだ。とはいっても、私の出来事の場合、藤田さんのそれと比べると、あまりにも鼻くそみたいで日常の瑣末な出来事に思われるかもしれないけれど。

それは、こんな出来事である。

私はPodcastで配信されているとあるラジオを気に入っていて、よく聴いていた。
ある時私はふと思い立って、ちょうどお便りを募集していたこともあり、そのラジオにお便りを送ることにした。

こう書いたら、きっと、こんな風な反応をしてくれるんじゃないだろうかとか、こんな風に盛り上がるといいな、などと想像をめぐらせながら、頑張って書いたそのお便りを勇気を出して送った。

結果、そのお便りはラジオ内で取り上げられたのだけれど、
その読み上げられた時の反応は、私の想像していたよりもはるかにそっけないものだった。

こう書いたら、きっと、こんな風な反応をしてくれるんじゃないだろうか、と思って書いた部分は、華麗にスルーされてしまったのだ。

私はたぶん、そのラジオの人達に対して、知らず知らずのうちに、自分と心が通じ合っているに違いないというような身勝手な幻想を抱いていたんだと思う。
だけど、相手は赤の他人。自分は、そのラジオを熱心に聴いて相手のことをよく知ったつもりになっていたとしても、相手からしたら自分は、ただのお便りを送ってきただけのよく知らない存在にすぎないのだ。そのことを私は、すっかり忘れてしまっていた。

私のこの話を聴いて、まことに身勝手で面倒くさい奴だと人によっては言うかもしれない。だけど、その出来事によって、思いのほか傷ついている自分がいた。それまでの私は、そのラジオを気に入っていて、熱心に聴いていたのだけれど、その出来事が起きた瞬間まるで、シャットダウンボタンを押されたパソコンが数秒後、回転していた機械内部のファンの停止音と共に静かになるように、私の気持ちは冷めきっていた。その直後から私は、ラジオの続きを聴く気がすっかり失せてしまった。

まさに、そのラジオに対して私が抱いていた幻想が、まるで上条当麻にイマジンブレイクされたかのように儚く散った瞬間であった。

私は悟った。幻想とは、思いのほか不確かで、そしてもろい存在であると。

だけど、それでも構わないと私は思っている。たとえ次の瞬間に消えてしまうと分かっていても、花火の一瞬の輝きは美しいように、
すぐに冷めてしまった幻想でも、その冷めるまでの短い間に放出されたエネルギーの輝きは、確かに美しかったと、私は信じたい。

話は少し変わるが、世の中にはアイドルと呼ばれる人達がいる。

アイドルは、アイドルとそれを支えるファンの存在によって成り立っているが、ファン達は、自分の推しているアイドルに対して少なからず、何らかの幻想を抱いているはずだ。

幻想とはいっても別にそんな大それたことではなくて、自分の推しているアイドルは、かっこよくて、あるいは可愛くて、いつも自分に元気をくれる存在であるとか、要するに本来他人どうしであるはずのアイドルと、そのファンである「自分」との間をつないでくれる「何か」であれば何でも成立すると思う。

そして、アイドルはファンの持つ幻想に答えてくれる唯一の存在。だからこそ、現実に失望した私は、アイドルに惹かれるのかもしれない。
アイドルを推し続けている限り、自分がそのアイドルに抱く心地よい幻想のなかに浸っていられるのだから。

アイドルという存在は、あくまでフィクションであって現実ではない。それは分かっている。だけど、それでいい。たとえそれが幻想という名の覚めない夢だったとしても、その夢の中にいる限り、人は幸せでいられるのだから。

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